「おっはよー!……あれ?今日はフェルト、まだ起きてきてないの?」
元気な挨拶が安宿の食堂の中に響く。
ノインはきょろきょろ見回したが、いつもであれば先に来ている一人がいない。
「おはよう、ノイン。そういえば今日は遅いようだな」
「ああ、おはよう。アイツは昨日は早く寝ていたようなんだがな…」
紅茶をすすりながら、フィーとグレイが顔を見合わせた。
いつも最後に起きてくるポウとは違い、
普段、フェルトはノインより必ず早く起きて食堂にいるのだが。
「ふーん、珍しいわねぇ」
そこでくす、と笑ったノインの表情はいたずらな子供のそれだった。
「……叩き起こしちゃおうかしら♪」
「やれやれ、程々にしておけよ」
「はいは〜い♪」
ノインは早速、急ぎ足に食堂から出ていった。
グレイは一応釘を刺したが、本当はノインがやりすぎるとは思っていない。
若く、衝動的な性格のノインではあるが、
レジスタンスとして活動してきた彼女は変なところでは律儀だ。
体調を崩していると見れば特に何もせずに戻ってくるだろう。
グレイはそう、確信している。だから、とめない。
元気な背中を見送りながら、フッとこらえたような笑みを浮かべた。
「フェルトも災難なことだな」
「うふふ、どうやって脅かしてやろうかしら〜」
早速フェルトの部屋の前までやってきたノインは、一人ほくそえんだ。
慎重にドアを開けて、音をさせずに開いたその隙間から覗き込む。
(ありゃ、ベッドにいない?)
ノインは予想した場所に存在しない姿を探して軽く見回す。
(……なんだ、もう起きてんじゃない)
フェルトは普段の服にすでにしっかり着替えて、鏡台に手を突いていた。
ほとんど身動きせず、ただ鏡をみつめている。
(……なにしてんのかな?鏡なんてじっとみて)
目元を見ると、なにやらまじまじと鏡を見つめている。
しかし、それは直後にふっと緩み、見たことのないほど、穏やかで嬉しそうな笑顔にかわった。
ノインはそれを見て硬直したあと、心のなかで結論を出した。
(フェルトってフェルトって……ナルシスト〜っ!?)
とんだ秘密を知ってしまったという思いで、彼女はくるりと振り向く。
ノインはこぼれる笑みを隠さず、足音を潜めて駆けだした。
時を少しさかのぼる。
「〜〜っ!」
ばっ、とブランケットを跳ね上げて、フェルトは目を覚ました。
目を落とす床に、たっぷりと朝日が差し込んでいる。
跳ね除けたブランケットの上に、葉の影がゆらゆらとゆれていた。
常ならば伸びでもあくびでもするところだろうが、
今日はあまり夢見がよくないようだった。
額にじわりと浮かんだ脂汗をぐっと手の甲で拭う。
(……さすがに、不安なんだなぁ、俺。
助け合える、信頼できる仲間がいるって事は、わかってるけど……)
手を額に当てたままで、ため息をつく。
錬金術士がいないベルクハイデにおいて、エデンを修復できるのは彼だけだから。
もし自分が動けなくなってしまったら……という恐怖は尽きない。
フェルトはのそのそと起き上がり、服を着替え、水差しの水を飲んで、鏡台に向かう。
寝癖を直して、服装の乱れがないかチェックして、よし、と頷いた。
ふと、鏡の中の自分と目が合う。
今は近くにいないけれど、フェルトはこのクセが『彼女』と同じ事を思い出した。
『もう、フェルトー。寝癖ひどいよ?鏡みなきゃ』
幼い声が聞こえた気がして目を閉じると、
エデンを出た時より幾分幼い少女の姿が瞼に浮かんだ。
『えぇ?めんどくさいよヴィーゼ』
『いいの、ちゃんとやるの!毎日してるかチェックするからねー』
『うぇー、ヴィーゼは細かいなぁー』
幼いフェルトは強引に鏡台の前に座らされて、
幼いヴィーゼに髪を梳られ、服の乱れを整えられて、照れくさそうにしていた。
(……結局俺、その後根負けして毎日するようになったんだよな。
偶然、クロイツ枢機院長に見られた時は、腹抱えて笑われたっけ)
ゆっくり目を開けると、鏡の中の己の瞳にかぶって、
似た色の瞳を持つシルエットが脳裏に浮かぶ。
これ以上なく見慣れた、幼馴染の優しい笑顔。
ほっとして、フェルトは我知らず頬を緩めた。
(髪はぜんぜん違う色なのに、瞳の色は似てるんだよなぁ)
円らな瞳の綺麗な青を、明るい色の睫が彩って。
(……似てるって言っても、俺はヴィーゼの瞳の方が好きだけど。
アクアマリンを溶かし込んだような青で、いつもきらきらしてて……)
フェルトの瞳は深い、大海の青。
ヴィーゼの瞳は澄んだ、蒼穹の青。
不安なときも、あの瞳を見つめると、それを守るためならと強く在れた。
ベルクハイデに発ったときもあの瞳を見ていた。
幼い頃から傍に在った、空の色。
俯き、目を伏せたフェルトは自分の右手を持ち上げて、
それをそっと左手で包み込んだ。
開いた右手の小指に鈍く光る指輪を見つめていると、
それを介して幼馴染と心が繋がっている気がして、不安は薄れていった。
「おはよう」
ノインが食堂に戻ってから5分ほど経って、
フェルトはのんびりと食堂に現れた。
笑いをこらえながら、ノインが言葉を発する。
「おはよう、フェルト……くふふ、今日も美しいわね」
「…………はぁ〜?」
「いや、いーのよ、何も言わなくて」
「何のことだよ?」
ノインはうんうん、と勝手に納得して笑っている。
他の仲間は口まで押さえて笑いをこらえていた。
思わず憮然とした表情でフェルトは問う。
「いやぁ、珍しく遅かったからさ、起こしにいったんだよね、あたし。
で、ドア開けたんだけど、あんたはもう起きててさ。
……かなり長い時間、鏡台に向かってたよねぇ」
そこまで言うと、ノインはくすくすと笑い出した。
はっと気がついて、フェルトの顔はこわばる。
(げっ。あのクセ……見られた!?)
「ちょ、ちょっとまてよ!俺は鏡を見てただけだって!」
「でも見た後、嬉しそ〜に笑ってたじゃない。
あんな嬉しそうな顔って、あたし見たことないなぁ。
百面相の練習ってわけじゃないでしょお〜?」
フェルトは笑ってた、と言う言葉に思い当たらず、
一度反論をとめて記憶を探った。
ちょうどそのあたりといえば……。
(……ヴィーゼの事、考えてた?)
我知らず浮かべた笑顔の『本当の理由』を自覚すると、瞬時に頬に血が上った。
慌てたフェルトはそれをばっと左手で押さえる。
内心、単純に恥ずかしかったが、それよりも。
(……ヘタにヴィーゼの事を含めて弁解すれば、絶対ツッコまれる)
「……もういいよ。勝手に言ってろよ」
目を伏せて、熱くなった頬を手で押さえたまま、フェルトは顔を逸らした。
「あちゃー。へそ曲げちゃった〜?」
ノインの一言を発端に、周囲で静かに見ていた仲間が一斉に笑い出し、
フェルトは精一杯、不機嫌そうな顔を作ってみせた。
ヴィーゼが仲間に加わった後。
件の事が彼女のクセと同じだと気がついた仲間達に、
その場から逃げ出したくなるほど囃し立てられる事になるが、それはまた別のお話。
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